市沢真吾 × 千浦僚 対談
    「第三の映画」談義

研ぎ澄まされた映画のまなざし者・千浦僚と事務局の皮を被りし映画野獣・市沢真吾が映画『ジョギング渡り鳥』の魅力を語る!

フリーペーパー「L ONLY PLANET」issue 01〜04 にて密かに人気を博した特別対談を全文掲載します。

 

 

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観終わったあとに頭の中で膨らみ始める

 

中川 市沢さんと千浦さんには『ジョギング渡り鳥』を第37回ぴあフィルムフェスティバル(以下PFF)で見ていただいたんですが、先日学校でお二方とこの映画のことを長々お喋りしまして。せっかくなので思いっきり語っていただくべく、対談を企画してみました。まずは感想から伺おうかと。
市沢 観終わって最初は戸惑いのほうが大きかったんですね。もし直後に感想を聞かれたら、「いやぁ、すごい面白かったよ」じゃなく、「あのシーンって、あの構成で良いんだっけ?」「こういうのってありなの?」っていうようなことを言っていたと思う。ただね、PFFでは上映の後、諏訪敦彦さんと鈴木卓爾さんの対談があって、それでどんどんこの映画への補完がされていった気がしたんですよ。で、それでもやっぱりまだ気になっていて、なんなんだろうなっていうまま、寝て。次の日はもちろん普通の生活が待ってるので。翌朝起きて、眠いなぁって朝会社に行く支度をして、ドアを閉めて、歩き始めて階段を下りる時とかに「あのシーンはどういうことなんだろう…」って思い出す感じがあって。仕事の合間にトイレ行ったときとか、「そういえば、あのシーンは……」とか、思い出すのが続いちゃって。
千浦  そんなに尾を引いてたんだ(笑)。
市沢 で、次の日も、「あ、今日中川さんいるな、『ジョギング渡り鳥』のこと聞いてみようかな」っていうような、つまり「気になってる」感じが一週間くらい続いた。面白いとかつまらないとかじゃなく、とにかく気になる。自分が最初に「つけ麺」というものを食った時に近い。
一同 (笑)
市沢 いや、あのね。あったかいスープであったかい麺を食うっていうのがラーメンだし、
千浦 うん。
市沢 冷たい汁に冷たい麺を食うのが冷やし中華だし、
千浦 うん。
市沢 冷たい麺を、あったかい汁につけて食った時に、あれ、ありなのこれ?って思って。周りに、知り合い誰もいないんだけど、隣の人に、「ありなんですかこれ?」って聞きたくなってきて。で、ありなのかなあ、気になるなあって思いながらもう一回行って食うんだけど、それでも「いやぁ、ありなのかなあ」って……。
千浦 (笑)
市沢 分かんないなぁ、よし、やっぱりもう一回食いに行こう、っていうのを続けてるうちに週三くらいそのラーメン屋に食いに行ってることがあったんですけど(笑)。それに近い、気になり続けてる感じだったんです。映画を観ていて、とにかく気になり続けるものって、実はあんまり多くない。そのこと自体がちょっと貴重だなと。だから、普通にこれ面白かった!って傑作を観た時よりも、その映画のことを思ってる時間のほうが長い。ずっと。
千浦 うん。
市沢 誰かが『ジョギング渡り鳥』について何かを言ってたら読みたくなるしね。その感覚ってなんだろうなっていうのをまず、思いましたね。千浦さんはどうでした? 最初に観た印象としては。
千浦 ずっと見逃していて、PFFで諏訪さんと卓爾さんのトークがあった時のあの上映で観たんですけど、いやぁ、すごい面白かったですね。上がりました、テンションが。
市沢 僕も上がった瞬間はありますよ、もちろん。でもそれってどういうことなんでしょうね。
千浦 なんですかね、細かい場面のディティールを挙げていったらたくさんあるんだろうけど。さっきの市沢さんの話でいうと、世の中で、娯楽作とかわかりやすい映画っていうのと、ちょっと難解な映画というふうに二分したときに、わりとわかりづらい系のほうだと思うんですよ。一言でこんな映画って要約できないじゃないですか。巨大なサメがあらわれてそれに立ち向かう警察署長とまわりのばたばた、とか。
市沢 よくすらっと出てきましたね(笑)。
千浦 だいたいわかりやすい映画って一言で言えるじゃん。そういう風には要約しづらいところがあって、同時にそういうのは難解な映画とか気取った映画とかの側かなと思うんですけど、『ジョギング渡り鳥』はなんだかすごい優しい映画で。その「難解さ」を挑発的にしかけてくる映画ともまた違ってて。
市沢 そうですね。
千浦 それは、テンション上がったディティールの部分とは別に強い印象としてありますね。能動的に面白いところにのめりこみながら、意識的に観るっていう感じで観た映画で、かつすごいいろんなことが分かったような気がしたの、観終わったあと。今の世の中とか、作品や本人を通じて知ってる卓爾さんの感覚とか、認識とか、方向性とか。エモーションがめちゃめちゃ伝わってくる。それであのアフタートークで、諏訪さんにもまたそれがちゃんと伝わってるのがわかって。
市沢 そうですね、諏訪さんに伝わってる感じがすごいしましたね。
千浦 諏訪さんがかなり言語化してたんですけど、僕はなんかそれがすごい悔しくて。いや、俺もほんとそう思った!って。映画で、言語でなく表出されてるもの、表されてるものっていうのがまさに今そこで解説的に話されていて。僕もほんとに、他の人と話したくてしょうがなくてですね。ちなみに僕は前のほうで観るのが好きで、見づらくても、スクリーンから出てるもの、電波をですね。
市沢 受け止めたい。
千浦 そうそう、一番濃いところで受け止めたいみたいなのがあって。
市沢 千浦さん、映画の中に入りたい派ですもんね。
千浦 そう、阿呆みたいに前に行く。映写技師してた時も夜のフィルムチェックではスクリーンの前1メートルくらい、自分の影が映るくらいで画面観たりしてて。PFFでも前に行って観てたんですね。それで観終わった後に人と話したくてしょうがなくて辺り見渡して、後ろのほうに吉川(正文)くんがいたんで、移動して隣に座って。ちゃんと諏訪さんと卓爾さんの対談も聞いてるんだけど、そうだよねそうだよね、僕は……って吉川くんに話して迷惑がられてたっていうくらい興奮したんですけど。
市沢 自分もやっぱり諏訪さんと卓爾さんの対談とセットで観たのはすごい大きくて。考えてみれば、ある一本の映画を観たとして、映画を観てる時間よりも、その映画のことを考えるとか、語るとか、思いを馳せてる時間のほうが本当はどんどん多くなるはずなんです。好きな映画ならば。また、その映画の事で誰か別の人と話したり何かを読んだりすると、自分の中でその映画がさらに蓄積されたり更新されていって。言葉を自分の中で見つけたり、別の言葉に触れたりすることで、さらに面白くなっていく。
千浦 なるほど、そうですね。
市沢 学生時代に批評を読み始めたのはそういうことだった。それは「もやもやした思いに言葉を与えたい」っていうことでもあったけども、批評を読むことによって、自分の中でその映画が、観た瞬間よりも育っていく感じがした。『ジョギング渡り鳥』はそういうふくらみを感じさせる映画でした。あとはやっぱり、「生きているキャラクター」を観たなっていう感じがするんですよね。2時間半という時間も関係しているかもしれない。この感触は、こないだ見直した『横道世之介』を観たときの体感と似ていて。あの映画も160分くらいあるんです。ストーリーも方法論もなにもかも違うけど、「実験的な側面がありながらも、そこに出ている人の生活や人生が、観終わったあと頭の中で膨らみ始める」っていう意味では、感触として近いものがあって。
千浦 ほう。
市沢 映画を観終わった後も、「あのあと彼らはいったいどうやって生きてるんだろう?」って思うような、そんな要素もあった気がするんですよ、『ジョギング渡り鳥』には。映画が上映された後も、登場人物たちはブルーレイデイスクの中でずっと生活していて、前観た時には撮影中だったあの自主映画作家くんは、次観た時には、もしかしたらもう編集が終わっているんじゃないか…ってくらいに「生きてる」人たちを見た。そのことと、「カメラが画面内に入り込んでること」がごちゃごちゃになって、よくわからない感情を掻き立てられた。
千浦 いや、良いですね。好きな映画を何回も観たりとか、次観たら変わってるんじゃないかと思うくらい登場人物の実在を信じちゃうこととかありましたよね、小さいときは。実際何回も編集が変わったからもう一回観たら変わってたっていうこともあったでしょうけど、PFFの時の上映で卓爾さんが、結構伝わってるから編集いじるのやめようと決意したって言ってましたね。まあ、出てる人を知ってるという意味でも、一面的なフィクションじゃないから、余計に浸食してくる感はありますよね。
市沢 そうですね。
千浦 映画の中で映画を撮ってたりお話の中にもう一個別の映画があったりとか、登場人物は知らないけど観客には伝わる別の枠組みがあるとか、そういうのがある映画や物語ってリアリティが強化される感じがあります。たぶん、意図的であるかどうかに関わらずそういうところが面白くてメタ物語みたいなものを作り手は作るんだと思うんですけど、すごい狙ってあざとくなってるというよりも、あの人たちがあそこにいた感はね、映画としてすごい強い、効果を上げてて。
市沢 そこが、さっき千浦さんが言った優しさというか。形式にはめられてる風には全く見えない。
千浦 優しさとかいうと気持ち悪い感じになるんですけど、いろんなものが重なった要素として。
市沢 うん。
千浦 政治性や社会性も急に声高に言うんでもなくね。それらは卓爾さんの中で連続してる主題で、諏訪さんも同じことを仰ってましたけど、本物っぽく見せるとかリアリズムって意味じゃなくて、その人にとってこれが明らかに実感を持って感じられる世界という意味でのリアリティ。それが今この私たちが生きている社会の中で、すごく多重になったり、共有できなかったりしてると思うんですよ。いろんな主張や意見があって、みんな決めかねていたり迷っていたり、そのことで分断されている。そういうのを『ジョギング渡り鳥』においてはもっとポエティックな感じとかファンタジーとかSFみたいな感じで描いてるけど、違うリアリティをもってる人たちがいて、それが映画によって全部つながってるっていう感じがあって、そこがすごい、全部終わった時に、こうじわじわっと来て、僕は良かったですけどね。
市沢 全く違うリアリティを持った世界が衝突するわけでもなく、同居してるっていうことですよね。
千浦 そう。だんだんディティールに言及することにもなるけど、不用意に触れ合ったりすると消滅したりしてしまうことが比喩的に表現されていたり、明確にそれが何を意味してるかを詰めるのもつまらない気がするんだけど、不用意さみたいなことへの警戒とかそういうことも描かれていて。
市沢 それと、決まりごとがゼロの世界ではないんですよね。
千浦 そうですよね。
市沢 決まりごとはあるんだけどもその中で踏み越えていく。いや、踏み越えるっていうか、境界線がはっきりしていないことが自由さと思えるところもあるし。境界線がはっきりしないということは、見ようによっては「ごちゃごちゃしてる」のかもしれないけど。
千浦 ごちゃごちゃした感じありますよね。
市沢 例えば、「自由さそのもの」を表そうとするコンセプトの映画、「“既成概念を取っ払え”っていう概念」にとらわれた映画ってあるじゃないですか。既成概念の破壊をワンカットごとに主張したいっていう。
千浦 はいはいはい。
市沢 それって、「自由という形式」を見せられてる感じがするんだけど、この映画はそうじゃなくて。表とか裏とか言いきれない、どこからどこまでが境界線だか分かんない。境界線は自分の概念から外れた世界にあるように見える。でももしかしたら本当の自由ってそれなんじゃないか。「はっきりしない」ということは戸惑いも生むんだけど、その戸惑いこそが「自由さ」なんじゃないかなと。
千浦 そうそう、自由な感じありましたよね。

 

 

────────────────────────────────────市沢真吾(いちさわ・しんご)
1977年生まれ。映画美学校フィクション・コース第1期修了生。現在、映画美学校事務局員。『ジョギング渡り鳥』のモコモコ星人たちは、同じ時期に全く別のパラレルワールドを生きていた。深谷を離れ都内で普通の社会生活を営みながら、しかしその日常から抜け出したいともがく者もいた…。万田邦敏監督『イヌミチ』を『ジョギング渡り鳥』の後に、そんな視点で観ると面白い。

 

千浦僚(ちうら・りょう)
1975年生まれ。90年代は大阪でプラネット、シネ・ヌーヴォ、扇町ミュージアムスクエア、東梅田日活の映写を担当。2002年上京、同年より2009年まで映画美学校試写室映写技師。2010年2011年頃はアテネ・フランセ文化センター、2011~2014年はオーディトリウム渋谷でバイト。現在は准無職の雑文書き。


2015年10月23日 映画美学校(東京)にて

聞き手:吉川正文、中川ゆかり 写真:小田篤 録音:川口陽一 

構成:中川ゆかり 文字起こし:古屋利雄

 

 

 

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