『ジョギング渡り鳥』間違いなくここ数年で最も面白い映画の一本!
ウルトラセブン「円盤が来た」、ゴダール、リヴェット、神代・・・1980年代映画の遊戯的側面、「映像を撮ること」のユートピアのドキュメンタリーとして、ワークショップ映画の自由さを全面的に活用した模範的な傑作だと思う。
赤坂太輔
映画評論家
あまりの自由さと楽しさにたじろいだ。
どうせなら、この映画を見るだけじゃなく、この映画を撮るか、この映画に出演したかった。
飯岡詩朗
松本CINEMAセレクト理事/信州大学准教授
職業柄「モコモコ」といった言葉に弱く、どんな宇宙人が出てくるのか楽しみにしていました。
映画に出てくるモコモコ星人は、猫ほどはモコモコしていないのですが、その存在がとにかく猫に近いと思いました。
まず、いつのまにか近くにいる。
確固とした意思を持つ傍観者である。
溶け合おうとすると「わたしはあなたではない」と突き放す。
特にどん兵衛はいちばん猫に近いように思います。少しかわいそうに思えても、彼は実は誰にも依存していないんじゃないか。そしていつか必ずいなくなっちゃう。
ほかの登場人物も大変に魅力的で、どの人にも自分を映すことができるのは監督の人物描写の成せる技でしょう。
自分が思う自分は他人からは違って見えていたり、はたまた自分で自分が見えなくなることもあります。
ではわたしは誰なのか。隣にいるこの人は誰なのか。
あやふやな存在だけれども、誰もが主役であり傍観者であり、自分のコースを走るジョガーなのでしょう。
道は続きます。正解(神)を求めて。出かけるのか帰ってくるのかどちらにしても、とにかく道は続いていくのです。
選んだ道は、どれも正解であり、間違ってもいるでしょう。ジョギングはひとりでは頼りないもの。横で走っている誰かに話しかけたくなる。傍観しているだけではいられなくなる。
お互いの足元から複雑に地中深く伸びた根は、触れ合い絡み、交じり合っていきます。
モコモコ星人は、そんな地球人たちを観察せずにいられないのでしょう。
ちなみに、映画を観た翌朝から、モコモコ星人はわたしの家にもいるのです。
逸見チエコ
猫ライター、イラストレーター、猫カメラマン
最新刊『まちの看板ねこ』宝島社
終わって外に出た時の耳に入ってくるザーザー、ガサガサ、ブーン…。
音の数々が爆音のまま耳にこびりついて、自分の耳が集音マイクになったようでハッとして思わず振り返ってしまった。
そんな感覚の中で「作りたい」のエネルギーが溢れてこぼれて流れてこっちまでやってきて、ふと自分への問いに気付かされる映画でした!
伊藤麻実子
俳優
『ゲゲゲの女房』(鈴木卓爾監督)出演他
俳優が、撮影録音照明も兼ねるが、それをありきたりなメイキングや劇中劇で挿入するのではなく、あくまでフィクションとして設定。
更には、本当の監督やカメラ、音声の収録する姿まで登場するという、おそらく世界初の新演出。そのコラージュ感に、映画への果てしない愛を感じる。
稲垣直紀
NHKエデュケーショナル・プロデューサー
正直わからないことがいっぱいあったし、退屈だなって思う瞬間もたくさんあった。
役者さんに任せられたであろう多くの台詞は書かれた台詞より自由だけどつまらなくもある。
ただ、この映画は映画の中でも外でも、人が人を信用している。
人を、と言うか、世界を、宇宙を、信じてる。
鳥も宇宙人も風もスタッフもキャストも監督も同列。
僕は映画をつくっていて、いかに生々しくあるべきか、と、いかにつくりもの(フィクション)であるべきか、っていうのは、映画にどっちも必要な事だけど、どこかで真逆の事だと思っていたのに、
宇宙人が出てきてわからない言語を話すほどのフィクション(神様まで!)と、役者のアイデアや生の言葉や動作をばんばん取り込む生っぽさ(さらには、竹とんぼや社長、小林屋や深谷駅なんていう固有名詞すぎるものまで!)の同居、そのバランスを見て、すごいなぁ、こわいなぁ、羨ましいなぁ、って思った。
僕はそこまで人を信じる事ができない。わからないことがいいことだとも思わない。
でもこの映画は楽しかった。ばかだなって何度も笑った。
ふと圧倒的な夜の街灯の美しい絵があったのを憶えてる。
映画監督が女優を好きになったりすること、そのもじもじについては誰よりもわかってる。
卓爾さんの頭ん中はいまだにぜんぜんわかんないけど、この映画は間違いなく卓爾さんの映画だった。
今泉力哉
映画監督
最新作『知らない、ふたり』全国公開中
見たことのない映画に出会ってしまった!と戸惑いつつも、
途中から、現実に流れている時間の感覚が分からなくなり、
しまいにはスクリーンの中と、客席の境界線まで融けていってしまうような、
不思議な感覚に襲われました。
モコモコ星人が撮影をしている世界の住人に、
いつの間にか私もなっていました。
川原沿いをよそ見したり誰かと出会ったり、
息を吸って吐いて腕を振って、
そんなふうにジョギングしながら
今も明日を待っているのかもしれません。
今西祐子
ニューシネマワークショップスタッフ/映画監督
『きみとみる風景』
ここ3、4年、映画観てなかったけど、こんな映画が出てくるんならまた映画いいかもな、と思いました。
これからの映画は全部じゃなくてもいいけど、半分くらいこんな感じだったらいいのに。
映画ってこういうの、って自分が思っていたものでした。
おもしろかった!!音、音楽も。
植野隆司
テニスコーツ
アルバム「Music Exists disc1&2」発売中
この映画をみて「記録」という言葉が浮かびました。ドキュメンタリーとも違う。いろんなことが省略されず大切に記録されていて、私はそこがとても好きです。映画館のゆったりとした客席でお話を傍観しているはずなのに、自分がどこで観ているのか、どの立場にいるのかを揺さぶられる要素がたくさんある不思議な映画でした。音がそんな気持ちにさせてくれた気がします。
牛尾千聖
俳優/遊園地再生事業団メンバー
『ワークインプログレス・子どもたちは未来のように笑う』
3/5〜3/16 こまばアゴラ劇場にて公演
冒頭のテロップとドイツ語のナレーション。ああ、そうゆう映画が始まったんだな、と思って観てたらぜんぜん違った。後で知ったコピーが「宇宙人がモコモコしてたらどうですか?」おっとっと。鳥人間、宇宙人、なぬ?
今という時代を、ものつくり側で生きる人間として、3・11以降、つくるものに「なんなんだよもー」という心の底から涌き出る声を詰め込みたくなるのは凄く良く分かる。
でも冒頭の説明が無くても、風景に、色に、衣裳に、俳優たちの静かな芝居に、台詞いっこいっこに、ちゃんと涌き出る声が表現されていたように思う。
何かもう少しテロップほど露骨じゃない、器用な説明方法がなかっただろうか、、、
と、ついつい考えちゃうけど、器用だったら嫌いだったかもなー、とか。
そうなんです、私、大好きなんですこの映画。
エンディングの歌が口をついて出て来ちゃうくらい。
そもそも、「映画づくり映画」にヨワい。『キツツキと雨』も爆笑のうち号泣した。
ロードショーも終わりかけの劇場で、そんな人は私だけだったけど。
ジョギング渡り鳥の、“映画つくりたいんです臭”はかなり強烈で、天高らかに掲げたカチンコを、全カメラ位置を確認しながらカツンと打つショットは気持ち良く泣けた。
多分だが、監督はきっとこれまでも助監督によってカットのカチンコが打たれる度、小さく感動していたんだと思う。そりゃそうですよね。もう、映画って。
宇宙人、神様、放射能、目に見えぬものが我々の周りにはいっぱいある。
見えるようにしてくれてありがとう、「映画」さん。という気分になりました。
「映画」があって、本当に良かったと、この頃強く思うものですから。
大九明子
映画監督
『ただいま、ジャクリーン』『でーれーガールズ』
見たことない面白さなんだけど、懐かしくてあたたかい。
物語ること・演じることの自由を刻々と更新していくような映画。
どんどんと堅苦しく息苦しくしようとするものに、ジョギングの速度で軽やかに対峙する反時代的な美しさ。
生きることの原初的な喜びを、のんびりと探し味わう時間。幸せだった。
大久保英樹
テレビディレクター
群れてる人が、出てこない映画です。
他者とつながることを、はなからあきらめている者。つながろうとするのだけれど、うまくいかない者。真に「つながる」なんてことはありえないんじゃないか、という気にさえさせられます。
にも関わらず、この映画に関わった人たちは「映画を撮る」ことを選びとっている。
ひとりで生きてくしかないのに、ひとりじゃできないことをしようとしている。
その無謀さが、寂しん坊の胸を強く打つのです。
小川志津子
ライター
どこへ行くのか渡り鳥。はじめは赤の他人であっても、海を渡る間に家族になりたい。
大作昌寿
株式会社REAL WAVE 代表取締役
物語は壊れても世界は続いていく、生き続けていく中でもう一度、もしくは新たに手にしなければいけないものはなんなんでしょうか。
鈴木卓爾監督『ジョギング渡り鳥』来年K’sでやるそうです。
小澤雄志
俳優
『ポッポー町の人々』(鈴木卓爾監督)出演他
「ジョギング渡り鳥」
内容にも増して、このタイトルの行方そのもののような語感がすきです。
OraNoa
シンガーソングライター
3月27日からライブツアー予定
あの星はシリウスですね。でも、望遠鏡が反対を向いていました。
片岡克規
『月刊 天文ガイド』編集長
映画館の席に座りながら、ランナーズ・ハイの高揚感を味わえる、中毒性満点の157分!
エンドルフィンの見せる幻が観る者をハイにさせる…これぞ、新時代の健康志向型アシッドムービー!あ…もう2回見たのにまた禁断症状が…ブルブル…。
加藤行宏
映画監督
『アイドル・イズ・デッド』
「自由に駆け回りながら、あなた方もお好きにどうぞとスクリーンの前に放たれた感じ。
戸惑いは自分が形式に捉われていた証拠かな。疑いなく全て目に映ってると思ってたけど、
何百万とある情報の中から自分の経験で処理できる選択だけを見てるのかなぁーなんて。
刺激的なのに鈴木作品らしい温かさがあって。時間がたつほど頭の中で膨らむ。
あー誰かと話したい!」
加藤理恵
女優
作品と観客に対する敬意さえ捨てなければ、いいかげんさもくだらなさもでたらめさも、まだ映画の美点として立派に機能するのだということを『ジョギング渡り鳥』は証明しています。
その敬意は、仕上げに費やされたであろう莫大な時間と労力となって映画に生命を吹き込んでいるように感じました。撮影以前から関係者全員に一貫した世界観が共有されていたかのように見せる編集も、簡単には分離できない色彩を根気強く腑分けし続けることによって獲得された画調も、あらかじめ規定された限界を肯定しつつそこにプラスアルファの表現を持ち込むことに成功した音響も、その全てがとても素晴らしい。
ものをつくるうえでほんとうに大切なことは何なのかを再確認することができ、とても勇気づけられました。多くの人々に観てもらえることを願っています。
鎌苅洋一
カメラマン
横浜聡子監督『俳優 亀岡拓次』公開中
調和と逸脱を両立させる快作は、映画をめぐる自由とコントロールという根源的なテーマを新鮮に提起し直す。素敵な無秩序の秩序、その不条理なグルーブに浸るうちに迷走的時空にこの星とかの星を結ぶ存ることの不安と寂しさ、愛おしさが浮上して、無軌道にみえる映画に引かれた繊細な軌道が感覚される。そこに働く無秩序の秩序をさばく監督の意志。それを受け止め共に創る者の覚悟。映画の自由を支える静かな制御の力業に見惚れたい。
川口敦子
映画評論家
最初に思い出したのはアレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』だった。「んなおーげさな」と思われる方もいらっしゃるかもですが、そーだったんだもん。目眩がするほどのわかり合う事の困難さにどう対峙するのか、この一点において。ゲルマンは国家、政治を全面に描きそこから個をあぶりだす。『ジョギング渡り鳥』は個と個によって関係がはじまりその先にある世界を見る。作品のベースとして震災と原発事故の存在が大きく横たわっているが卓爾くんはまず隣りにいる自分の好きな女の子の気持ちすらわからないでしょ?ってレベルで考えなきゃこの難敵には立ち向かえない、と言っている気がした。あと、一人で何も考える必要のないジョギング、そして誰かと、誰かの息遣いを感じながら並走するジョギング。
どっちもあっていい。
川瀬陽太
俳優
『ローリング』(冨永昌敬監督)出演他
「映画が生まれる瞬間」
このごろは映画館という制度の中で映画づくりをする作家にとってはかなりキツイ時代といえるでしょう。不特定多数の観客を惹きつけるためのマンネリ化したスターとストーリーが大手をふっているからです。けれどもこういう時代だからこそ生まれてくる映画もあるでしょう。鈴木卓爾の「ジョギング渡り鳥」はそういう映画です。
最初に出会ったときはとまどいました。スターは不在、ストーリーはあるような、ないような感覚…。見終わってからなんだこりゃあ、と思いながらも輝く瞬間が捉えて放さない。この感覚はなんなの、と二度目に観たときに、ああ、これは映画が生まれる瞬間の集積なんだなぁ、と納得しました。作者の、リスクを恐れぬたくらみにすっかり巻き込まれてしまったというわけです。みずから俳優でもある作者は、ありきたりの物語りをおし着せるのではなく、映画が生成する場にスタッフやキャストはもちろんのこと、観客を含めた全員に体感させるよう仕掛けているです。
さあ、客席で映画づくりの愉しさを満喫しませんか…。
かわなかのぶひろ
映像作家
5月開催<イメージフォーラム・フェスティバル>のための新作を制作中
最初の方は「モコモコ星人ってなんやねん?撮影なんかしてるけど何がしたいのん?」と苦々しい顔をしていた。しかしその内に「おほほ。何がしたいのか知らんけど、こいつらの気持ちとかわかっちゃいそうで、おもろいやないの」とニヤニヤした顔になってくる。そして終焉の時「え?終わるの?…もっとみせろよ、ばか!」と悲しい顔になっていた。「そうだ。終わったのなら、もう一回見ればいいんだ。あいつらにまた会えるのだ。ふふふ」って、僕は今、このコメントを書きながらにっこり笑っている。
川原康臣
映画監督
『寝てるときだけ、あいしてる。』
『ジョギング渡り鳥』は本当に後を引く作品でした。
人々もモコモコ星人も抱える孤独の連鎖と言える事態をどこまでも優しい眼差しで見つめている。そのことがただただ感動的でしたし、『イヌミチ』で知っている俳優陣の魅力が遺憾なく発揮させられていて引きこまれました。
それにしても、見える見えない存在を同じ画面の中に共存させ、撮影もカメラマンと俳優たちが撮ったショットを混ぜ、さらにはカット毎にモコモコ星人は入れ替わることもあるような大胆さに素直に驚きつつとても面白かったです。
映画が表現できることを改めて考えるいいきっかけになりましたし、映画ってこんなにも自由でいいんだと勇気をいただいたような気がしました。
菊地健雄
映画監督
『ディアーディアー』
いまは「神はいない」らしい。(そのうえあったはずの髪もなかったようだ)
それでも、私たちによく似た身体を持つあなたたちがすぐ隣でカメラを廻し音を録っている姿を想像すれば、まだ、何万光年も生きていける気がするし、何度でも美しいこの場所を通過できると信じてやまない。
ジョギングは毎日続いていくのだ。
草野なつか
映画監督
『螺旋銀河』
『ジョギング渡り鳥』は天使についての映画だ。天使は普通、私たちの目には見えない。
だがこの映画作家はカメラとマイクという驚異の器械を使って、彼らを可視化してくれる。その結果得られた映像と音響を通じて私たちは自分たちの周りをいかに多くの天使たちが取り巻いているかを知る。と同時にこの映画が示すのは、私たちが人間であると同時に天使でもあるという二重性を生きているという事実だ。ラスト、カチンコを高く掲げる女優の身振りとそこに流れるメロディに涙を禁じ得なかった。驚嘆すべき157分。
葛生 賢
映画批評
昨日PFFで見た、鈴木卓爾監督『ジョギング渡り鳥』は、ばらばらの素材を素材のまま束ねたような映画で、僕は勝手に背中を押された気になった。
黒川幸則
映画監督
『Village On The Village』
『ジョギング渡り鳥』宇宙人が地球人を撮影しているのだけれど、宇宙人も地球人も姿形は同じなので、観ている間にどちらが宇宙人でどちらが地球人だったかわからなくなってくる。
宇宙人から見たら、地球人も宇宙人。
地球人同士が日々争っていることがバカバカしく思えてくる平和的映画です。
古東久人
フリーライター
上映終わって、頭の中が疑問符一杯のまま、まず「愛だなあ」と思った。
一見何だかよくわかないこの作品を、自らの監督作品と呼ぶ鈴木卓爾監督の愛、その期待に答えるべく懸命に撮影/演技する俳優たちの愛、そして、自分たちが創り出した映画を世の多くの人に見てもらおうとするMBA全員の映画への愛、なんかいろいろ混じった愛をぽーんと手渡しされた感じがする。思い出すと、「愛なんだよなあ、やっぱり」とニヤニヤしてしまう。
近藤 強
俳優
奇天烈でへんてこな映画でこりゃしんどいかなと思っているうちに作品にひきこまれていた。自分も出演者であり、スタッフである気がしてきて、しかもそれを見ているもう一人の自分がいる。これは夢の世界ではないか。美しくも奇妙で凛とした画面がぐいぐい引張る、やるせなくてカッコわるくて愛おしい、卓爾監督的男女の物語。それを作り上げる役者達がまた素晴らしい。面白かった。映像が物語を牽引する、これぞ映画の原点である。
寒空はだか
寄席芸人
ここまできてるのか、映画って。
こんなことになっているとはつゆ知らず、わ—なんだ、何だこれは!
まったくすべらしい、新しい形容詞が要るな。
私たちもまけられない、うれしいうれしい気持ちで帰りました。
さや
テニスコーツ
アルバム「Music Exists disc1&2」発売中
誰もが主役として画面の中に存在している。それぞれがそれぞれの意志で動き、出来事を引き起こしている。だからひとつの画面から驚くほど同時多発的な出来事があふれ出してくる。
反面、誰かがひとりでいる場面が不穏だ。何も起こらない時間が不穏だ。ただ夕暮れの路上で屈伸しているだけなのに。二階の窓辺に佇むだけなのに。
柏原隆介や古内啓子の醸す絶妙な笑いの裏側で、男たち女たちがふと醸し出す不穏さに、私はこの映画の真の野心を感じとった。
塩田明彦
映画監督
『抱きしめたい』『昼も夜も』
今の世の中、呪詛と不寛容の風が吹き荒れていて、目をあけて前に進むのも容易なことじゃありません。そんな時に、抱き合うことも、手をつなぐことも出来ないけど、お互いの存在を全身で感じながら、次なる未来に向かって一緒に羽ばたこうと悪戦苦闘しているスクリーンに写った彼らを見ていて、なんだか不思議と勇気が湧いてきました。
正しい映画なんてないけど、幸せな映画ってあるんだなあ!
ありがとう、ジョギング渡り鳥たち!!
篠崎 誠
映画監督
『あれから』『SHARING』
奇妙な宇宙人たちは、人間を観察しながら考えたかもしれない。
人と人は隣にいるのに、何でこんなにお互いを遠く感じているのか。
そんなに早く走って、どこへ向かうのか。
こんな考察を乗せながら、映画の時間はゆっくり流れ、やがて土手のお茶会が始まる。
その光景は、人間存在を丸ごと肯定して、祝福しているように見えた。
素敵な157分だった。
須郷信二
TBS
映画って何だろう?
まず、自分の呼吸を確認してみた。吸って吐いて、歩いていることを意識的に確認。
映画にしかできないこと、演劇にしかできないこと、演劇にも映画にもできないこと。
映画を観終わって、今、私が見ている、聞いている、臭う、触れるものは、嘘なのかもしれない。本当だけれど。あなた、と、わたし、は居るんだろうか?いまここに。と疑いたくなる。不確かに感じる。確かに映画を観ていた自分が居たのに。
あの中で、あの人たちは、息を吸って、息を吐いて、あそこに居た。
「ジョギング渡り鳥」と発語した瞬間、頭の中で唄になって発音されて、もう自由に走り続けてしまう。その後ろ姿を前から見続けてしまう、それを見ている自分の背中も自分に見られているかもしれない。
心地よい不確かさがずっと漂っている。
鈴木智香子
俳優
この奇妙な話を本気で信じて演じる役者の熱と、それを高度な「映画の画面」に結晶させようとするスタッフの技術が見事に融合した映画だと思う。この融合は決して偶然ではなく、鈴木卓爾という教祖を、役者もスタッフも信じたことで生まれた必然なのだろう。だから、『ジョギング渡り鳥』はまったく新しい宗教映画なのかもしれない。
あれ?とすると、鈴木卓爾は一体なにを布教しようとしているのだろう?
大工原正樹
映画監督
『坂本君は見た目だけが真面目』
最近、面白い自主映画を見ると、ソビエト映画みたいって感じることが多い。
「フィクション」だけど「記録」みたいに思える映画。
これもそうですよね。鈴木卓爾監督のもと、アクターズ生とフィクション・コース生が発見したことの「記録」なんだ。ゲルマンの『神々のたそがれ』の、撮影隊が映り込んじゃったバージョン。そんなこと誰も考えてなかったと思うけど、ゲルマンの現場ってこんなんだったんじゃ…とすら思わせる。
この「記録」は学内の実験から出発したわけだけど、学校の枠組みを越えて観客に届いて欲しい。現場をフィクションの縛りから解き放ち、再びフィクションへと戻ってゆく、作り手や俳優が解放され自由を呼び込む映画作りの瞬間が切り取られているのだから。
高橋 洋
脚本家/映画監督
脚本作品『リング』、監督作品『旧支配者のキャロル』『恐怖』
いつのまにかモコモコ星人のように入鳥野町の住人を観察する自分に気づく瞬間があり 、
「待つこと」を一緒に楽しめる貴重な映画でした。待てば待つほど愛おしくなってきます。
『ジョギング渡り鳥』これから何回も観る映画になるかと思います。
竹平時夫
映画プロデューサー
登場するのは、渡り鳥、鳥人間、宇宙人、そして人間。SFエンターテイメント映画でありつつも、ひとの心のささやかな悩みを、異界のものがそっとすくいとるときの、やさしさ。
ひととひととの衝突を、じっとみつめるユーモア。別々の世界がふれあうときの、せつなさ。人間のいじらしさを、映画という大きな愛でくるみ、観たひとをも希望で包んでくれる。
あかるい狂気。
ひとくちに言って、これは、狂気の映画でした。
一般に「狂気=ややこしくて陰鬱で内省的」という印象を抱きがちですが、そうではなくて。ここにある「狂気」は、あかるいのです。
唯野未歩子
俳優/映画監督/小説家
講談社『100万分の1回のねこ』アンソロジーに参加
これは映画の解放運動である。近年これほど自由な映画があっただろうか?セオリーに囚われない破壊力は愉快痛快!静かなるパンク映画の誕生だ!チープながらもトリッキー、アコースティックでアーティスティック!フザけてそうでフザけてない緊張感が素晴らしい。そして僕の耳には「ケッパヤチガラサ」「マツコトマブシ」という言葉が懐かしく切なく響き渡るのだ。カチンコを打つ瞬間が震えるほど凛々しく感じられる映画がここに
あるよっ。
田中要次
俳優
出演作『エヴェレスト 神々の山嶺』『ピン中』が3月公開
短編映画『ドラムマンz バチがもたらす予期せぬ出来事』を2015年に監督
並んでジョグって2時間37分
渋谷からとんでもなく遠いところまできたっしょ!って上げ上げの息と昂った声で横を向いたらバサって飛び去っちゃったのは鳥だから、そうだよねの後に残った大空には見たことのない色が広がっている!!
田中淳一郎
のっぽのグーニー
アルバム「賛歌賛唱」発売中
実験的な作品だと思っていたら、とても普遍的なドラマが語られていることに驚きました。
可愛らしい作品だと微笑んでいたら、壮大な物語の展開に圧倒されました。
いったい自分がどんな映画を見たのか、見ている間も、見終わったいまもよくわかりません。
けれどこの映画のいくつものシーンが、日常のなかにふいに姿を現し、私の頭のなかを少しずつ浸食しているようです。
映画が公開される頃には、モコモコ星人と彼らが出会った地球人たちとで、きっと私の頭のなかはいっぱいになっているでしょう。
それにしても、舞台となった深谷の街の魅力にはすっかりやられてしまいました。
どん兵衛と珍蔵さんと一緒に、あの居酒屋で焼肉とビールを飲んでみたいです。
月永理恵
映画酒場編集室/「映画横丁」編集人
わたしも、どこかはわからないけど一緒に連れてって欲しいなと感じるクライマックスでした。
みんな地球人だろうけど、もしかしたらそうじゃないかもしれない、みんなどこの人でどこから来てどこへ行くんだろうなあと、悲壮感とか哲学みたいな小難しい感じではなく、のほほーんとぼんやり考えてしまって、あたたかい作品でした。
戸谷志織
映画美学校アクターズ・コース第5期
撮影現場で俳優はマイクを向けられ、照明を当てられ、カメラに映され、緊張感のある状況に追い込まれます。俳優の芝居を見守るスタッフもまた緊張感を共有します。
ですが本作では俳優もスタッフも撮影行為によって自由になり、解放的に生きているように感じました。穏やかな時間が流れる157分です。
観客も観ることによって、穏やかさを体感できると思います。
内藤瑛亮
映画監督
新作『ドロメ』『ライチ☆光クラブ』が公開
映画史の中で時々、発見されるのを待っていたような優れた作品に出会うことがありますけど、 『ジョギング渡り鳥』はそういう匂いもする作品と感じた。同時に、今後も「映画」、つまり監督鈴木卓爾にとっては「世界」が本当に続くのか?大事な何かが存続できそうか見えない、というような居場所の不安を内包した現代的な映画だと思う。
映画の発想段階から「何故いまこの映画を、この人達とここで作るのか?」という問いかけが予め含まれていて、その答えを作品に反映させようとする。前作「楽隊のうさぎ」にもあった。 『ジョギング渡り鳥』は、それが多分限界までなされた映画ではないかと思います。
もしAIが映画まで作り始めたとしても、「ジョギング渡り鳥」はおそらく人間にしか出来ない映画だと思います。作品の裏付けや動機が、得体のしれない情緒にあると思うので。
今は変化が大きすぎて、映画産業すら何処に向かえばいいか誰にも分からない。そんな中で、撮影する宇宙人という仕掛けを作って、映画についての映画を撮った。時代に沿った作品と思う。邦画の流れにマッピング・ポイントを作った作品だと思います。
中川泰伸
映画評論家/映像作家
まず試みがすごくおもしろいなと思いました。
フィクションをぶっ壊してドキュメンタリーの要素を入れて再構築されているんでしょうか。
映画の世界に寄り添い近づいたかと思いきや突き放されるを繰り返すのに、それが乱暴でも尖ってもいなくて、ふんわりやさしいというのは、「モコモコ星人」というふわっとした謎の宇宙人に代表される、この映画の一番の特徴なのかなと思います。
きっと見るたびに新たな発見のある作品だと思うので、一度じゃなく二度三度と見たいです。
あと、「ジョギング渡り鳥の唄」は強烈に残りますね。
今も頭の中で口ずさんでいるぐらいです。
名倉 愛
映画監督
『放課後ロスト』
オープニングで「社会派映画」を期待して見始めたら、なんだか微笑ましい不条理な世界が展開してきました。
ウクライナという名前の女性。他の人名も(聞きとれないものもあったけど)どうも普通じゃないみたい。中川さん演じる女性のランニングウェアは、ウクライナ国旗の色…?何のアレゴリーだろう、次なるウクライナさんってことかしら。(しかし専門柄、ウクライナ問題の危機を日々身につまされて感じているせいか、むしろ私には製作者の意図が分かりづらかったかもしれません)
最初は「鳥人間ってこんなに手作り感満載でいいの?!」と思いながら見ていたのに、そこに自主映画の監督(松太郎君)と女優が入り、なにからなにまでダメな映画作りをしている様子とかぶることで、作中の手作り感も妙に切実なものに思えてくる。
そして意味不明な鳥人間たちの言葉が、だんだん分かるような気がしてくるから不思議です。
「人間」——ちえるのさんをはじめ、不思議と身近に思える彼らは、苦しいのかな。走っているのは居場所がないから?
「鳥人間」の飛び交う不条理のなかに、「人間」たちのリアルな苦しみが垣間見える瞬間が、とても良かった。ただ個人的な好みをいえば、麩寺野くん周辺や背名山さんのあたりで「苛立ち」のトーンが続く場面——はっきりとした「怒り」ではなくなにかイライラした雰囲気が続く場面は、見ていて若干きつかった。
でも、そんななかで中川さんの走る姿が際立つ気もしたから、それでいいのかな。やはり存在感のある人っているんだなあ。
そして最後には「うん、なんかとてつもなく良いものを創りたいぞ!」という気持ちになりました。
奈倉有里
翻訳家/映画『PLAYBACK~アレクセイ・ゲルマンの惑星』字幕翻訳
小説『陽気なお葬式』(リュドミラ・ウリツカヤ著)発売中
これこそ真の意味でリアルな映画なのだ。その稀有のリアルさを体験すべく、
衛星に乗ってでも映画館へかけつけよ!!!
蓮實重彦
映画評論家
監督の人間をみる視線、世界をみる視線がユーモアで満ちていました。
作りものを、作りもののままみせるのだけれども、みている私と地続きにつながっていて、
最後には不思議な高揚感と、作り手への敬意を感じました。
兵藤公美
女優
泣きました。そして傑作ですと。これで充分な気がしますが言わせてもらいます。宇宙です。
空間、存在、物、膨張、収縮、時間、エトセトラ。多元的かはたまた平行。おしまいの消滅なのかと?つづくよ、どこまでも。
廣田朋菜
女優
『駄洒落が目に沁みる』(鈴木卓爾監督)出演他
友達と一緒に走り回って遊ぶ。一緒に世界を発見し、聞き、触れてみる。
それをいつからやめてしまっただろうか。
この映画はまるで、観客を遊びに誘うかのように不思議な世界へ導いていく。
映画の後半、彼らは走り出す。
カメラの後ろで私達が走っている。カメラの前であなたたちが走っている。
そして私達は一緒に走り終える。
これ以上の幸福があるだろうかと、この映画は尋ねてくる。
深田隆之
映画作家/海に浮かぶ映画館 館長
『ジョギング渡り鳥』は、鈴木卓爾監督が「アクターズコース第1期生」の仲間たちと出逢い、そのユニークでしなやかな感性を存分に発揮して、ワクワクするような試みを具現化、現実化した世界だと感じました。いろんな意味で度肝をぬかれる映画だと思います。しかしながら『楽隊のうさぎ』のうさぎや『ゲゲゲの女房』の妖怪たちと人間の共存する世界に遊ぶことにすでに慣れ親しんだ身としては、モコモコ星人と人間が共存する卓爾さんの世界は、なんら違和感のない日常茶飯事ではあります。ただ、目に見えない世界と目に見える世界が共存するといかにカオスになるかということは今回の楽しい発見のひとつでした。超カオスだけれど、そこにはうまくやれるなんらかのルールや方法も示されていて、それは基本的には「相手を思いやる」「心を通わす」あるいは「一緒に心を震わす」ということなのだなということもジョギング渡り鳥たちに教えてもらった気がします。これが「ふつう」の映画かと問われれば、やはり「ふつう」の映画でないことは明らかです。そこで「では映画とは何なのか?」という原点回帰的な思索ができるのもこの映画の特徴であり、恩恵だと思います。
たびたび諏訪敦彦監督が投げかける「映画における”監督”の存在への疑問」のような根源的な問いかけにも、『ジョギング渡り鳥』が軽やかに鮮やかな答えを提案してくれているように見えます。つまり、映画はみんなのものであり、同時にひとりひとりのものであり、「わたし」と「あなた」のものであること、ひとりひとりがそこに生きている、ということを(こどもでなく、大人の映画で)実現できたミラクルな作品であることに震えました。さらには、観客もその映画のなかに生きる者として存在できるのだということも発見できます。そうは言いながら、それらすべて、つまり混乱やカオスとひとつひとつのディテールを、あたたかく柔らかく、しかも冷静に包みこむ鈴木卓爾さんの「眼差し」が確かにあることも感じられました。それは監督の仕事というよりは、「見つめる人」というような存在感だったような…。それを感じられたということは観客でいながら、やはり映画のなかにも「わたし」が存在してたという印になるのではと思います。もしかしたら一緒にジョギングしていたひとり(だったと思ってる者)からのささやかな感想です。
福嶋真砂代
REALTOKYO ライター
こんなにも素敵にバカバカしくて、果てしなく自由な映画ってあるんだ?って思いました。
ワークショップが母体とはいえ、よくもまぁ、大の大人たちが大勢で寄ってたかって、こんなドタバタを3年~4年かけてやりきったもんだと、エンディングでは感動を覚えました。主題歌が本当に心にしみる!
ラストシーンには、映画の神様がタッタッタッと走り抜けたり、パタパタパタと羽ばたいているように感じました。
藤田充彦
リトルモア
俳優を目指す若者たちが集まって劇場でかかる映画を作りたいと思ってもほとんどの場合頓挫するだろう。そんな希望には挫折で応えるのがこの世の中だ。
それを実現した映画美学校と鈴木卓爾監督はまるでサンタクロースだ。
そんな若者の夢と大人の愛に溢れた映画だと思う。
古舘寛治
俳優
タイトルから連想する内容とは、多分大きく異なります。あらすじからイメージする映像とは、おそらく全然違います。
そこには淡々と描かれる地方のリアルな日常があります。演者の演技力に裏付けられたしっかりしたドキュメンタリーです。しかしこれがメタSFと融合します!
個人的には青春群像劇に今ハマッてるのですが、リアリティを保ちつつ、これを成立させる力量に素直に感服しました。まずは先入観なしに観て欲しいですね!
保土田智之
俳優
これは共同体の映画だとまず思った。
ジョギングの休憩所で出会う人たちのゆるい共同体を丹念に追うような映画。
でも途中で違うと思い始めた。余計なものが色々映っている。
「映画」って隠したり、切り取ったりするものだと思っていたけれど、その窮屈さがなく、メタ的な理屈っぽさもない。
風景、人物、カメラと物語と生活とマイクと歌と監督とバナナと演技と竹とんぼとUFOが並列に映っていてヒエラルキーがない。
そのうち『ジョギング渡り鳥』という生き物が監督やキャストやスタッフや画面に映るあらゆるものを吸い込んでどんどん肥大していくような感覚に襲われた。
映画生命体。それが静かに呼吸をしている。
ああ、そうか。これは「映画」という形を借りた生き物なんだと合点した。
生き物の内臓というか、小宇宙を覗き込むと、そこには私たちと似たような人たちが暮らしている。
その中の誰かが「わたしはあなたではない」という言葉をつぶやいた時
ふと、この映画生命体に包み込まれた感覚を持った。
松井 周
劇団サンプル主宰
『ジョギング渡り鳥』は大胆不敵にずんずん進む。
観客に「ついてこれるかな」と振り返りながら。
「分かり難くないですか?もうちょっと説明しましょうか」的な
巷に溢れる親切な映画とは違って、スクリーンを通して真剣勝負を挑むのだ。
こんなに暴れ放題なのに映画は壊れない。
松江哲明
映画監督
『ライブテープ』、『フラッシュバックメモリーズ 3D』
映画を観て数日後、都会の街中をへとへとで歩いていて、
ふと見上げると鳥が一羽、真上をゆくところでした。
一羽なので渡り鳥ではないでしょうが、「ジョギング渡り鳥」のシーンと自分の友人たちのことをどうしてか一緒に思い出していました。
すこし粗いけれど妥協がない、そういう映画だったんだと、そのときすっと、分かったような気がしました。
私の見た白く光った鳥は、渡り鳥と会うでしょうか。
すれ違ったりお話したりするでしょうか。
『ジョギング渡り鳥』とは、すれ違って、すこし振りかえってみて、またどこかで会うかもしれない、そんなふうに思います。
松谷友美
写真家
写真集「六花(りっか)」蒼穹舎刊・発売中
何台ものカメラで撮影されたこの作品には監督である鈴木卓爾さんの姿も記録されている。
カメラの前の役者たちを見ている卓爾さんの眼差しは本当に優しい。
救いのない世界を映し出す監督の愛のある姿に僕は救われました。
松永大司
映画監督
『トイレのピエタ』『ピュ〜ぴる』
鈴木卓爾様
今日PFFで上映された『ジョギング渡り鳥』とても面白く拝見しました。
荒唐無稽な魅力に満ちていて、かつ非常に知的な印象が残りました。
私は現在の日本映画をそれほど見ていないのですが、常識を丁寧に説明したような映画や非常識な映画を創ろうという常識が支配的な映画が多いような気がします。
そういった風潮の中で出色な作品だと思います。
このところ「現代映画とは何か」ということがやたら気になって、先月もアテネでクリス・フジワラさんを講師に「現代映画とは何か」という特集をやったばかりなのですが、その1本に加えれば良かったと思うくらいです。
出演者もとても魅力的でした。もしかすると演技をする側と演出する側のヒエラルキーが崩れた時に生れたものかもしれませんね。
鈴木さんや諏訪さんがおしゃっていたように世界はバラバラなのだと思います。そのバラバラな感じを誰もが持っていて、映画の中では「癒し」として統一した世界観の実現が求められているのでしょう。
そんな状況に反抗するような映画だと考えます。
(*差出人の許諾を得て掲載)
松本正道
アテネ・フランセ文化センター
涙とまらず。嬉しいとかハッピーとか感動を超えて、特別な感情が生まれました。
映画はチームでつくるものだけど、この映画はほんとにいいチームだなと思ってみているうちに、最後にはこの映画をみたことで自分も同じチームにすこし入れてもらえたような、そんな喜びもありました。ヘンテコだけどまっすぐで、これは純愛映画だと思いました。映画への純愛、ぼくらの毎日への純愛、この世の中への純愛。大好きな映画です。
三宅 唱
映画監督
『Playback』『THE COCKPIT』
この映画は、気ぜわしく窮屈で深刻な商業世界に対する、ひとつの提言である。
ただし「宣戦布告」というような攻撃的なものではない。
穏やかでユーモラスな「独立宣言」とでも言うべきものだ。
今回、鈴木卓爾が描いた世界はユートピアであり、一種のコミューンでもある。
従って、そこに生きるひとたちの姿にノレるか否かが評価の分かれ目にもなるだろう。
実際、無名俳優らによるエチュードで進行する作りだからこその「危なっかしい瞬間」は何度か訪れる。
知り合いがひとりもいない酒席に呼ばれて、一滴も酒を注いでもらえないまま、先に酒盛りを始めたひとたちが盛り上がっている様を見せつけられているような置いてけぼり感を味わうひともいるかもしれない。
だが、ゆっくりと呼吸しながら、もうすこし観てみよう。
彼らの息づかいから漂う臭気は、確実に心地よいまどろみへと変わり、むしろ目が醒める。
そして気がつくと、画面上の無名俳優らは、これ以上ないほど魅力的で愛すべき者たちへと変貌しているはずだ。
慌てなければならない、急がなければならない、だがどうしたらいいのか分からない。
もしもあなたが、そんな不快情動に苦しめられているのなら、この映画を観た方が良い。
「人生は案外捨てたものでもない」という気持ちになるはずだから。
三宅隆太
脚本家/スクリプトドクター
『楽隊のうさぎ』以来久しぶりに新作を拝見しまして、ここ何作かの長編を拝見したときに感じた、こう、腰痛のようにカチカチに凝り固まった映画づくりに対する感覚がほぐれていく心地よさは変わらず、むしろより自由になっていて、たいへん刺激を受けました。思えば学生のときは◯◯部などと分業する考えさえ持たず、現場にいる誰しもがカメラを回してとにかく何でも撮っていたもので、実はいまでもそのように撮りたいなぁと思うものの、なかなか自由には振る舞えず、しかしそういうストレスも含めて「映画づくり」なのだと思っているふしもあり…そのへんを『ジョギング渡り鳥』で全部覆されてしまいました。
やったらええねん、などと仰っているのかわかりませんが、映画をはじめたころの初期衝動が顔を出してきて痛快でした。
村松正浩
映画監督
『シンク』『グレイト・グランマ・イズ・スティル・アライブ』他
視界と、フレームと、ファインダーを超えて、現実とフィクションを駆け抜ける映画、『ジョギング渡り鳥』の熱量(カロリー)にしびれました。
餅山田モチ世
アニメーション作家
言葉だけじゃ伝わらなかったり、誤解を受けたり、嫌ったり怒ったり、そもそも信じたり繋がりすぎたかったり、いっそのこと黙ったり、ひとりでジョギングしてみたり、それでも映画を創りたかったり難しく考えすぎたり、働かなきゃだったり。
そんな世の中で僕ら映画製作者に残されたのは、想いを越えた渡り鳥のような「習性」なのかもしれない。
どこかに集まって、またどこかへ散ってゆく。
今は、それだけでいいのかもしれないと思える、そんな優しい映画だった。
森岡 龍
俳優/映画監督
今夏公開『エミアビのはじまりとはじまり』に出演他
コマとコマの間にも時間が存在すること、世の中は美男美女だけで構成されている訳ではないということ、感じたことを言葉にして伝えるのはとても難しいということ。フィクションからこぼれ落ちる部分を掬い取り愛でる卓爾監督に見つめられた、映画美学校アクターズコースの皆さんのやり取りや動作が、選び抜かれたスーパースターのそれにしか見えなくなる瞬間を目の当たりにしました。
卓爾さんに出演して頂いた拙作『Dressing
Up』の主人公の少女・育美は、ある出来事がきっかけで変身しますが、卓爾さんが演じたお父さんこそ、今にも何かに変身しそうな過剰さを秘めていたから、あのいびつな親子が成り立ったんだと思います。簡単に記号化できないその過剰さが、理屈で覆い尽くされたシナリオを突き破って前に出てくる瞬間を目の当たりにして、映画の本当の面白さを教えて頂いた気持ちになりました。
『ジョギング渡り鳥』は、捉えどころのない過剰な何かで溢れかえっている映画だから、見ている間ずっと刺激的だったんですね。映画の中にいる人がそんな風に自由に振る舞えたのは、卓爾監督の懐の深さにあるのは言うまでもありません。
理路整然とした言葉が似合わない、とても言葉にするのが難しい映画なのに、凄くたくさんの方からコメントが寄せられているのも何だか面白いです。『ジョギング渡り鳥』のすべてをのみこんでいく映画作りは、まだ続いているのだなと思わされます。
安川有果
映画監督
『Dressing Up』
『ジョギング渡り鳥』。理想を求めて現実を取捨選択するのが普通の映画だとしたら、この映画は現実から教わりつつ得たものをあまり捨てないようにして作られている。とはいえドキュメンタリーではない。異星の生物を観察記録している宇宙人を描く純然たる絵空事なのだから。
柳田威生
映画ファン
誰かと一緒にランニングしたことがありますか。
もしあればこの映画は一発でわかると思います。
すぐ隣にある息づかい、くすぐったさ、にくたらしさ、どうでもよさ、うれしさ、近すぎるくらい近くにある肉感、そして不在の悲しさ。
そんな生き物たちが画面に映ります、正確には空に映ります。
どうして空には命が映るのでしょうね。
そしてその不在は、時間がたてばたつほど強く空に映ります。
この映画は時間がたてばたつほど輝きを増す映画だと思います。
山内健司
俳優
ランナーや渡り鳥に入り交じって舞うのは円盤なのか、それとも空飛ぶさらし首なのか。
たとえティータイム中とてアクションはささやかなものから我が身を土台からつくり変えるものと音響に至るまで絶えず起こり続け、めまぐるしいようで不思議とその度にヴィヴィッドさが増して行く。どれだけ乗り越えたであろう、大きな賭けを恐れない意志にたじろぎました。
山形育弘
core of bells
2ndアルバム「Methodelic」発売中
またひとつ銀河系のそとに瞬く星をみてしまったようでした。
山崎樹一郎
映画監督
『新しき民』
『ジョギング渡り鳥』は怖くない映画だと思いました。
とても礼儀正しく、勝手に流れ込まないから。
モコモコしているから浸水しないのかもしれません。
今日の帰り道、道路も電信柱もみんなモコモコしてたらいいのにと思って歩きました。
モコモコは、どこかに行けと言ってもそばにいる優しくて大きな動物の肌ざわりです。
こんなに自由なのに、そばにいるって変ですけど。
映画は好きに観ていいんだと、観察は中でやっておくから眺めていれば良いのだと。
夕暮れ時の山の端のようにぴたりとした境界線。
それに守られているような気持ちにもなりました。
混じり合わなくても、わたしも、あなたも、好きにしていいんだと。
だから、ラストのシーンが幸せで幸せでやりきれなくなるのだと思っています。
私はこの映画が大好きです。
だけど独占したい気持ちが湧かなくて、飛んで行って欲しい。
渡り鳥もUFOも、遠く旅をしていろいろな目に映されて欲しい。
本心から願います。
裕木つゆ
映画美学校アクターズ・コース第3期
鈴木卓爾監督は、日本の映画界でほとんど唯一の、詩人だと思う。
侯孝賢監督が言葉をいとう詩人だとしたら、
卓爾監督はきっと言葉との戯れが大好きな詩人だ。
私がやりたいと思ってたことを、やりたいけどどうやったらいいのか
まったくわからなかったことを、卓爾監督はこの映画でやっていた。
いかに映画から自由になり映画をつくるかという逆説的な問題に、
身をヨジラセながら長いこと立ち向かってきた卓爾監督だからこそ
>たどり着けた映画なんだろうな。
大先輩に失礼を承知で言うが、悔しかった。
監督がどんな人かなんて知らずに観ても、大爆笑の映画です。
映画作ってる人たちってただのかわいいおバカなんだな、
とニヤニヤ笑って観る映画です。
横浜聡子
映画監督
最新作『俳優 亀岡拓次』公開中
まず、何もない真っさらな地平があって、誰かの意思とそれに共鳴する幾つもの思い。
次にキャメラが置かれて、ここから「光が生じるように」
なによりも先立ってスクリーンにはまず「映画」があって、あなたは此処でどう生きますか?と問われているような157分。
まるで天地創造を目の当たりにしたような時間のあと、扉を開けて外へ出るとそこには鈴木卓爾監督が立っていて、「あなたは神様ですか!」と本気で思いました。
吉田光希
映画監督
『家族X』『トーキョービッチ, アイラブユー』
『ジョギング渡り鳥』の中で切り取られた入鳥野町の物語たちはどこか恥ずかしそうだった。
「私は入鳥野町の全てではありませんよ」とはにかんでいるようだった。
「あちらでさんざめいているのも入鳥野町です。こちらで渦巻いているのも入鳥野町です」映画に映らなかった物語たちも集まって入鳥野町(世界)はできている。
世界から、恐る恐るえいやっと切り取った物語をどきどきしながら優しく見守っている彼らの姿を見て、少し涙が出た。
渡辺謙作
映画監督
今夏『エミアビのはじまりとはじまり』が公開予定
渡り鳥みたいに、誰かの風よけになれたらいいなと思いました。
飛ぶことに少し疲れたのか、寄り添い集まる人たち。人にそっと触れたような温もり。
あー、俺も映画作りてぇー
匿名希望
映画美学校アクターズ・コース第4期修了生
近代美術館フィルムセンターにて「ジョギング渡り鳥」見てきました!ラストの余韻、歌がまだ残ります。ああ、まだ終わってほしくないなあ、もう少し、この群れのリズムを眺めていたいなあと思っていたらさらさらと飛んで行ってしまいました。来年の陽春にもう一度あの群れを見れるそうです。
匿名希望
映画美学校アクターズ・コース第5期生
走ることは、前へ進むことなのか逃げることなのか追うことなのか分からない。それでもめげず渡っていけば、いつかきっと、冬の太陽が照らす場所にたどり着くだろう。そこでなんとなく生活を始めて、根づいたり、また渡りに戻ったりする。別れは辛く、道連れは愛しい。そうして夜が来た時、ひとりで眠りにつく。その繰り返しでしかないけれど。最後の息を吸って、吐くまで。走っていく。渡っていく。
匿名希望
映画美学校アクターズ・コース第5期生